一、大和心

 日頃、怠惰な自分を猛反省致す為に、今回 大和心 』と題して、日本の大切な心を自らの心に刻み込み、練磨致したいと存じ、思いつくままに書き留めてまいりたいと存じます。

 

現在、私達が、刀を差して歩く事のみか、敵を想定して刀で戦う行為などを、修練する事自体無意味で有り、疑問を持たれるという方も多いと思われますが、我が道場の名前至誠館の至誠の如く誠を尽くして,古来よりの武士の心を学び、修練することにより、日本人としての本来の良い伝統や心構えにやがて接し得る事が出来、現在の日常生活の内にも活かせる武士道=『大和心』の中の『優しさ』、『真心』、『勇気』の内の日本人に今一番大切と思われる『勇気』を心に刻み付ける事が出来ると思います。正しいと思われる事を素直に何気なく行える事が出来る『勇気』、誰からも与えられる物では有りません、自らが求め。努力してのみ掴み取れるものでしょう。その手段として『居合道』は理想的な武道と思われます。

河野百錬先生の言われた如く

  『居合道は終生不退、全霊傾注の心術なり』。

剣の操作法や体の捌き方のみならず、その奥にある本当の得るべき、見ることは出来ませんが、正しく、強い『大和心』をしっかりと心に刻み込むために銘々いたしました。

 

『大和心』という言葉は古くは平安時代の「大鏡」に記されていると聞きますが, 私の心に響いたのは何と云ってもこの歌からです。
 
    敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花

 

作者は江戸時代の国文学者の本居宣長です。

 とても格調ある歌ですので、
浅学の私には本居宣長の本当の意思は図り知れませんが、当時の中國や西洋からの知識や考え方を基にした『 唐心 』又は『 漢意 』からごころ)と呼ばれる考え方とは異なる本当の日本、日本人の根底にある思想を生涯かけて探求し,一つの心を『 大和心 』(やまとごころ)と表現し、

世に現しました。


 霧が少し出ているのでしょうか・・・ 朝日が霧の間を透して輝き始めます・・さっと吹く風に、 一瞬を光り輝いて, 儚く、控えめに潔く散ってゆく山桜花・・・。


 『 大和心 』の心髄が、心に染みる如くに目に浮かびます。
 ただ、この歌の中には潔く散って逝くという表現の言葉は全く有りません。

(自分の心は、朝日に輝きほのかに匂う山桜の潔く美しい姿を素直に愛でる心を大切にしたいと思う)と理解する方が正しいかも解りません。

ただ私には、本居宣長先生が、山桜の、日没時ではなく、朝日に匂う と歌われた意味の中には、サッと差してきた朝日の光と、爽やかな風に惜しみなく身を任せ、ヒラヒラとひそやかに散って逝く山桜の姿を奥に秘められ、その散り際の良さとそれの伴う『ものの哀れ』を感じ、優でるという、日本人の心をも表現されたように感じます。

この『自然の美しさを素直に優で』、『ものの哀れを深く感じる』繊細な感情は日本人の遺伝子の奥深くに長い年月のうちに刻み込まれて居ると思われます。。

この様に潔く咲いて、潔く散って行くと言う姿に、 『大和心』『武士道』が結び付き、武家社会の規範と成ったのでしょう。


 この『武士道』に通じる『大和心』は三本の柱で構成されます。
その三本の柱とは、真心=至誠、優しさ=仁愛、そして勇気ですが この勇気こそが、日本人として

大切な 忘れてはいけない心構えでしょう。

 

 又『大和心』は次の二項目にも表現されます。
  1つは 和魂(にぎたま)=優しく和らいだ争いを好まぬ平穏な心
  2つは 荒魂(あらたま)=安寧を破らんとする外敵が現れる時に   は勇猛に戦う魂、

 こんな言葉が有ります。

  

              かくすればかくなるものと知りながら、

         やむにやまれぬ大和魂。

       事に当たり成すべきことを成す。

          なんぞ成敗を問わん。

                     吉田松陰


例えが良く無いかも解りませんが、一人の老人が5人の不良に迫られている時、 助けたいと思った時に、勝てるかなと思ってしまうと出来ない。
助けたいと思う心を強く発動し、飛び込んで精一杯働く、 つまり、心を『和魂』から『荒魂』に変化し易い様に 鍛錬することが大切です。


 明治天皇のお言葉に
   身にはよし佩かずなりても剣太刀
          とぎな忘れそ大和心を


と在ります様に、古来日本人が大切にしてきた心を養い、 『大和心』を練り上げる為に、 居合道を誠を尽くして修練し、ひたすら座してゆきたいと思います。

                                                          平成30年 11月20日 

 

 

二、居合道の古歌

    古歌にこの様なものが有ります!

 

      居合とは、人に斬られず人斬らず、  

              己を責めて、たいらかの道      

      居合とは、心に勝つが居合なり

              人に逆らうは、ひがたなと知れ 

      上手とは、外をそしらず自慢せず

              身の及ばぬを恥じる人なり 

             (無双直伝英信流居合道 福井虎雄著 第1巻7ページより)            

                                                         平成30年 12月4日 

 

 

  三、波瀬館員の質問について

         昨日居合道修練の後に館員から、前記の福井虎雄先生の「居合とは心に勝つが居合なり、

  人に逆らう は、ひがたなと知れ」の中で、ひがたな とはどんな刀ですか? との質問が

  有りましたので、私の考えなりに書き加えて置きたいと思います。

 

    林崎流秘歌の内よりの引用と思われますが、元には下記のように書かれています。

      『本と能我尓勝可居合農大事也 人尓逆婦ハひ可多なり介里』

      『本の我に勝つが居合の大事なり 人に逆らうは僻なりけり』 

                          (ひがた)

   「僻」=ひがた、へき、ひがむ、片寄る、道理にもとる の意であります。

  人に逆らう事は、道理に悖(もと)りますよ。と理解するのが順当と思われますが ふっと!

  書き加えている内に、一つの疑問が湧いてきました。

  なぜ、福井虎雄第二十一代御宗家は ひがたなと知れ と平仮名で書かれたのでしょうか?

  私は、館員の質問の、どんな刀ですかの言葉に意味が有るような思いがして参りました。

  あくまでも浅学の、私の想定でしか有りませんが、もしかしたら、御宗家は、本当は「非刀」

  お書きに成りたかったのでは無かったか

  「人に逆らう事は、刀に非「アラズ」、我の刀=自分の魂 に背くことになる!

  しかし「非刀」との表現は余りにも、林崎流の古歌の表現とはかけ離れてしまうと思われて、

  御自分のお考えをお入れになり、読まれる人が自由に読み取れるように平仮名に書かれたのでは

  無いでしょうか?                 

  あくまでも仮定の意見であり、恐れ多いことですので、間違って居たら、御寛容を賜りますよう

  お願いいたします。

                               文責 藤岡大和

                                  平成31年4月27日 

 

三、「三種の神器」=「大和心」

  本日の新聞に天皇・皇后両陛下が伊勢神宮に御退位の御報告=「親謁の儀」の為に御参拝

   された記事が掲載されていました。

  陛下の前後に「三種の神器」のうち「剣」「璽」(じ)=(勾玉)が陛下を守るように捧げられて

  随行している写真でした。

  あれ!「三種の神器」でないの?

  と一瞬思いましたが、そうです「八咫鏡」(やたのかがみ)は伊勢神宮にて「御神体」して大切に

  保管されて居りますので、ちゃんと三種の神器」は揃っているのです。

  ところで何故「三種の神器」が皇室の宝であり、又日本の宝なのか少し疑問が湧いて参りました。 

 

        正式には「剣」「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)(あまのむらくものつるぎ) 「璽」  「八尺瓊勾玉」

  (やさかにのまがたま)と言いますが現在「草薙剣」熱田神宮に安置され 「八尺瓊勾玉」 は宮中に

  御神体として安置されているそうですが、御皇室の皆様も今迄ご覧になった方は 居られないと聞きます。

 

   ところで、何故これらが,日本の宝であり、御皇室の宝なのでしょうか。

  そこには何か歴史上の深い訳が学術的には存在すると思いますが、浅学の身には絡まった紐を

  解き放つ事が出来ません。

   ただ、こうで在れば良いなと思うことが有ります。

  最初の項にて、述べて居ります事柄の内に、改めまして日本人として大切な心、「武士道」にも

  通じる「大和心」「三本の柱」により構成されていることを述べました。 

             その三本の柱」とは

     「真心」=「至誠」,「優しさ」=「仁愛」、そして「勇気」です。

     如何でしょうか・・・・・!

  何かが見えては参りませんか・・・・・!

 

   「草薙剣」=「勇気」、「八咫鏡」=「至誠」(まごころ)、「八尺瓊勾玉」=「仁愛](やさしさ)、

   いずれも日本人のDNAの組み込まれている大切な「大和心]そのものでは有りませ

  んか「八尺瓊勾玉」=「仁愛」(やさしさ)が御皇室の遠いご先祖の伊勢神宮に安置されて

  居るということも, 現在、天皇・皇后両陛下の災害時等の国民に対処される、あの御姿

  に象徴されて いるように思われます。

    今回、「三種の神器」と共に皇室の御先祖の前、「親謁の儀にてご自分の御退位の御報告と

   共に、来るべき「令和」の世を必ず勇気を以って,「和と成す」ことを御祈願成されたのでは

  ない と拝察いたします。

   

 私も来たるべき「令和」の時代に向け、居合道の修行の内に、大切な人や物事を守り抜く

   為に「勇気」を」出し「誠」を尽くして「和と成す」努力を続けて参ります。

                          

                              平成31年4月20日

  

 武士道について

   居合道を修練してゆくうちに、必ず湧き出てくるのが「武士道」なる言葉

   でしよう。     何となくは、イメージは有りますが、
              これだ! と正確には説明出来ないのでは無いでしょうか。
              最近ある資料で『武士道』の事をうまく説明しているなと思われるものを見つけ ま

   した の でここに載せておきます。

 

   「武士道」

   武士道とは武道の事を意味するのではない,他者を力ずくで圧倒することでなく、
   自分自身の心に潜む弱さに打ち克つ修練を重ねる事である。
   すなわち武士道とは日本人の道徳であり行動の美学である。
   人間は『どういう風に成功するか』ということを考えて行動するよりも『人間は どう

   行動すれば美しいか』ということが決定的に重要である。
   『かくあるべし』という自己規律の精神これこそが武士道の神髄である

 

   「仁」=「心」
     他者への思いやり、寛容,同情,哀れみ『武士の情け』に代表されるように

      峻烈な戦いの中ですら敵を思いやる気持ちを持ち合わせている精神、 守るべき者

     への愛、それが「仁」

 

  「義」=「行動」
      仁を実行する為の力、愛すべき者へのその愛を実行する為の背骨、力の元、道理 、

       行う為の正義、打算や損得から離れた人としての正しい行い、それが「義」
      『フェヤープレイの精神』日本に於いてはたとえ戦いに勝ったとしても不正な行
       為をして勝った者は賞賛されない

 

  「礼」=「行動の心」
      他人の気持ちに対する想いやりを目に見える形で心を込めて表現することが

      「礼 」、うわべだけの挨拶は日本では単なる作法とされ礼節とは認められない。
       つまり「礼」とは仁、義を表現する為のやり方である。

 

          「智」=「秩序」=」「中庸」『宇宙の原理』
      物事の本質、道理を正しく見極め優れた知恵を働かせ工夫し,より良い方法を

       得よう とすることが「智」物事のバランスを判断し考える事。

 

            「信」=仁、義、礼,智を行って信を得る
      理屈抜き心情的に信じる事信頼にこたえること、我が日本では契約という概念が
       無く『口約束』だけで充分に事は足りる。

 

             「誠」=」「武士道の本質」{仁、義、礼、智,信⇒誠}
      言+成=言ったことを成す、一度承諾をした事には命がけで信条(約束)を守り 、

       もし言行不一致の場合には死を以て償うという心構え。

 

 私達も『居合道』を修養して行く中に少しでも、日本人に流れている血、誇れる血

 『武士道』=「大和心」心を呼び起こしてゆきたいものです。

                           平成31年4月22日

 

 

 

 

 

五、安佐南「至誠舘」の心

  最近、日頃の武道修錬の中で、

  ふっと! 心のヒダの何処から

  か浮かんで来た言葉が有りまし

  たので、残して置きたいと思い

  ます。

  その言葉とは、呉の江田島海軍

  兵学校で、将来の日本の運命を

  担う、士官補生が,就寝前に

  学習室で自らを反省、斉唱して

  いた,言葉の数々です。

  その言葉とは「五省」と呼ばれ  

  る訓戒ですが、これを創始され

  たのは当時の海軍兵学校校長松下元(はじめ)少将の発案によるもので、兵学校生徒の

  日々の各自の行為を反省させて、明日の修養の備えさせるために、毎晩「自習止め5分

  前」のラッパが鳴ると素早く机をかたずけて粛然と姿勢を正し、黙想静座する。

  すると当番の生徒が「五省」の五項目の問いを発唱、各自は瞑想し、心の中でその問い

  に答えながらその日一日の自分の行動について自省自戒したのである。

  

  この「五省」の内容は普遍妥当性を持っており、如何なる国、如何なる時代にあって 

  も、人としての大切な倫理上の訓戒で在り、現代人にも響く言葉の数々であります。

  終戦により兵学校は閉鎖され、日本の陸海軍に関するあらゆるものが否定され、抹消

  されたが「五省」に関しては例外であったようです。

  敗戦後に来日した米海軍のウイリアム・マック海軍中将が「五省」に感銘を受け本国の

  アナポリス海軍兵学校に持ち帰り現在でも教育に使われているとの事である。

  勿論、我が国日本でも海上自衛隊幹部候補生学校を始めとして、一般企業にても、この

  言葉を、会社の信条や訓戒として多く採用されていると聞きます。

  

  日頃、怠惰に過ごす身には誠に心に痛く、又染みこむ大切な言葉の数々です。毎日では

  なくとも、心ある時には、これらの言葉を、心のヒダに深く、大切に刻み付けて行きた

  いものだと思います。

           

         『 五  省 』

      

     一つ、至誠に 悖る なかりしか

           (もとる)

      二つ、言行に 恥じる なかりしか

 

      三つ、気力に 缺くる なかりしか

           (かくる) 

      四つ、努力に 憾み なかりしか

            (うらみ)

      五つ、不精に 亘る なかりしか 

            (わたる)

                      

                           令和元年5月20日改 

 

 

 

六,日本の美しい心

  日本の武道及び茶道や華道等の道と呼ばれる習い事の基本的な精神「礼より始め、

   礼によって終わる」との教えが有ります。

  「礼」の表面に現れた姿は武道の「型」と同じです。

  武道修行者の殆どの行程は、この「型」より入りその内面にある「心」を探求して行く

  のが一般的であり、日本の文化にも共通した考え方だとと思います。

  この「心」の探求の深さにより「礼」「心」が包含されて見事な「礼」と成り、日本

  人の美しい「凛」とした姿が現れて来るのだと思います。

  安佐南『至誠館』で修練する私たち同志は、この美しい日本の「大和心」を大切に致す

  べく日々努力を重ねて行きたいと思いますが、この心に反する行為が目に付く場所が有

  ります。

  その場所はトイレです。

  少なくとも武道を修練する人であれば自分の履物を備え付けのスリッパに履き替えるの

  は当たり前の行為と思いますが、『必ず履き替えてご使用ください』のカードが置いて

  在るのは、実行されない人も多く居られるのでは無いかと想像できます。

  又履き替え使用した後のスリッパが乱雑に脱ぎ散らかって居るのを見るとなにおか況や

  ですね!

  夏休み中ですので子供達も多く,多くはその行為の犯人は、無邪気な、かわいい彼らかも

  解りませんが、それならなお更の事、未来の美しい日本人に少しの「勇気」を修練して

  もらいましょう。自分より他に数人の人が、その場に居り、見られている中で、後の使

  用される人の為に「恕」の心「思いやりの心」を発揮して 「出船」にスリッパを揃え

  という行為は、少し恥ずかしい思いを感じ、小さな『勇気』で捩じ伏せねばなりませ

  んが、この小さなな当たり前の行為を「ラッ」と出来る心が「大和心」の一番大切な

  『勇気』です。

  我が家(私)では出来ているのに、体育館(公)では出来ないので無く、常に(私)

  (公)を大切にする考え方が『武士道』にも通じます。

  私も改めて「型」「心」を注入し直して、夏休みの未来の美しい日本の希望有る子供

  達に、小さな『勇気』を発揮して注意して行きたいと感じるこの頃です。

                                     以 上

 

                               令和元年7月31日